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神宝計画の一つ 巨人計画から枝分かれしたプロジェクト 巨人計画のおり偶発的に完成してしまった「陽天皇」「月天皇」の二機の破壊兵器を 有効活用するためのプロジェクト。 本来「巨人計画」は量産を目的に遂行されていたが初代玄武局長の 無名法師が好奇心から奉神を組み込みバランスをとる事に挑戦。 過去の物部達が再現できなかった星船を超える水準の兵器を製造してしまったために 急遽、たちあげられたプロジェクト。 結局、公団では運用しきれず拠点守護用の範囲兵器 「陽天皇」「月天皇」の二機は、分解の後封印された。 後に管理を物部 幸家が引き継いだ。
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781年即位。 天智天皇系。父は光仁天皇。母は高野新笠。 天武天皇の血統を全く持たない。
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出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 神武天皇(じんむてんのう、紀元前711年2月13日~紀元前585年4月9日)は、日本の初代天皇。日本の神話上の初代天皇。日向国(宮崎県)出身。在位は神武天皇元年1月1日(紀元前660年2月11日)~神武天皇76年3月11日。 天皇が即位した旧暦1月1日は、現在の暦では2月11日にあたり、日本国が建国した日として、第二次世界大戦に敗戦する前は紀元節、戦後は建国記念の日という祝日である。 『古事記』には神倭伊波礼琵古命とあり、『日本書紀』には神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)・始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)・若御毛沼命(わかみけぬのみこと)・狹野尊(さののみこと)、彦火火出見(ひこほほでみ)とも。 生涯 以下は主に『日本書紀』に拠った神武天皇の事跡である。内容が神話的であり、神武天皇の実在も含めて現在の歴史学では、そのままの史実であるとは考えられていない。『古事記』にも神武天皇の物語があり、大略は同じだが遠征の経路などが若干異なる。『日本書紀』『古事記』の神武天皇の記述は東征が大部分を占めており、詳細は神武東征の項目も参照のこと。 皇子の時代 神武天皇は即位前は神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)といい、彦波瀲武鸕鶿草葺不合命の四男(または三男)である。 生まれながらにして明達にして、強い意志を持っていた。15歳のときに皇太子となり、長じて吾平津姫(あひらつひめ)を妃とし、息子の手研耳命(たぎしみみのみこと)を得た。 『日本書紀』によると、甲寅の歳、45歳のとき日向国の地高千穂宮にあった磐余彦は、兄弟や皇子を集めて「天孫降臨以来、一百七十九萬二千四百七十餘歲(179万2470余年。偽書とされる神道五部書のうち『倭姫命世紀』、『神祇譜伝図記』ではニニギは31万8543年、ホオリは63万7892年、ウガヤフキアエズは83万6042年の治世とされ、計は179万2477年となる。)が経ったが、未だに西辺にあり、全土を王化していない。東に美しい土地があるという、青い山が四周にあり、その地には天から饒速日命が下っているという。そこは六合の中なれば、大業を広げて、天下を治めるにふさわしい土地であろう。よって、この地を都とすべきだ」と宣言した。諸皇子はみなこれに賛成した。 東征の開始 10月5日、磐余彦は兄の五瀬命らと船で東征に出て、速吸之門に来た時、国津神の椎根津彦を道案内とした。筑紫国宇佐に至り、宇佐津彦、宇佐津姫の宮に招かれて、姫を侍臣の天種子命と娶せた。 筑紫国崗之水門を経て、12月に安芸国埃宮に居る。3月に吉備国に入り、高島宮の行宮をつくって3年滞在して船と兵糧を蓄えた。 長髄彦との戦い 戊午の歳の2月、船団を出して浪速国に至る。3月、河内国に入って、4月に龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めず、東に軍を向けて生駒山を経て中州へ入ろうとした。この地を支配する長髄彦が軍衆を集めて孔舎衛坂で戦いになった。戦いに利なく、五瀬命が流れ矢を受けて負傷した。磐余彦は日の神の子孫の自分が日に向かって(東へ)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟り兵を返した。草香津まで退き、盾を並べて雄叫びをあげて士気を鼓舞した。この地を盾津と名付けた。 八咫烏の道案内 5月、磐余彦は船を出し、山城水門で五瀬命の矢傷が重くなり、紀伊国竃山で死去した。 名草戸畔という女賊を誅して、熊野に経て、再び船を出すが暴風雨に遭った。陸でも海でも進軍が阻まれることを憤慨した兄の稲飯命と三毛入野命が入水した。磐余彦は息子の手研耳命とともに熊野の荒坂津に進み丹敷戸畔女賊を誅したが、土地の神の毒気を受け軍衆は倒れた。 東征がはかばかしくないことを憂えた天照大御神は武甕槌神と相談して、霊剣(布都御魂)を熊野の住民の高倉下に授け、高倉下はこの剣を磐余彦に献上した。剣を手にすると軍衆は起き上がり、進軍を再開した。だが、山路険絶にして苦難を極めた。そこで、天照大御神は八咫烏を送り教導となした。八咫烏に案内されて、莵田の地に入った。 怒濤の進撃 8月、莵田の地を支配する兄猾(えうかし)と弟猾を呼んだ。兄猾は来なかったが、弟猾は参上し、兄が磐余彦を暗殺しようとする姦計を告げた。磐余彦は道臣命を送ってこれを討たせた。磐余彦は軽兵を率いて吉野の地を巡り、住人達はみな従った。 9月、磐余彦は高倉山に登ると八十梟帥(やそたける)や兄磯城(えしき)の軍が充満しているのが見えた。磐余彦は深く憎んだ。高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)が夢に現れ、その言葉に従って天平瓦と御神酒をの器をつくって天神地祗を祀り、勝利を祈願した。 10月、磐余彦は軍を発して国見岳で八十梟帥を討った。11月、磯城に攻め入り、八咫烏に遣いさせ弟磯城は降参したが、兄磯城が兄倉下、弟倉下とともになおも逆らったため、椎根津彦が奇策を用いてこれを破り、兄磯城を斬り殺した。 12月、長髄彦と遂に決戦となった。連戦するが勝てず、天が曇り、雹が降ってきた。そこへ鵄(とび)があらわれ、磐余彦の弓の先にとまった。すると電撃のごとき金色の煌きが発し、長髄彦の軍は混乱し、そこへ磐余彦の軍が攻めかかった。饒速日命は長髄彦を殺して降伏した。 翌巳未の歳の2月、磐余彦は従わない新城戸畔、居勢祝、猪祝を討った。また高尾張邑に土蜘蛛という身体が小さく手足の長い者がいたので、葛網の罠を作って捕らえて殺した。 これに因んで、この地を葛城と称した。これによって、磐余彦は中州を平定した。3月、畝傍山の東南の橿原の地を都と定める。庚申の歳、大物主の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)を正妃とした。 即位 辛酉の歳(神武天皇元年・紀元前660年)の正月、磐余彦は橿原宮で践祚され、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称した。52歳であった。 神武天皇2年、功を定め、道臣命は築坂邑に大来目を畝傍山の西に居住させ、椎根津彦を倭国造に、弟猾を猛田邑の県主、弟磯城を磯城の県主に任じ、高皇産霊尊の子孫の剣根を葛城国造に任じた。併せて八咫烏を「幸を運ぶ鳥」と褒賞した。 神武天皇4年、天下を平定し海内無事を以て詔し、鳥見山に皇祖天神を祀った。 神武天皇31年、巡幸して、腋上の丘に登り、蜻蛉(あきつ)のとなめ(尾)に似ていることから、その地を秋津洲と命名した。 神武天皇42年、皇后媛蹈鞴五十鈴媛命の皇子の神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)を皇太子と定めた。 崩御 神武天皇76年、127歳にして崩御した。 系譜 父は彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)、母は玉依姫命(たまよりひめのみこと)。 『古事記』・『日本書紀』本文・第一・第二・第四の一書では、四男。第三の一書のみ、三男と作す。なお生年月日の記述は記紀にはない。兄に五瀬命、稲飯命、御毛沼命がいる。 妃:吾平津姫(あひらつひめ、阿比良比売。阿多小椅君の妹) 手研耳命(たぎしみみのみこと) 岐須美美命(きすみみのみこと、研耳命。古事記のみ) 皇后:媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと。大物主の女) 日子八井命(ひこやいのみこと、彦八井耳命) 神八井耳命(かむやいみみのみこと) 多朝臣・阿蘇国造・科野国造・火国造などの祖 神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと、神沼河耳命・綏靖天皇) 神武天皇の非実在説 神武天皇が即位したという辛酉の歳(紀元前660年)は弥生時代にあたる。明治時代に入り、近代歴史学が導入されると、歴史は、同時代史料や、同時代史料に基づくと推定される良質の編纂史料に根拠を持つものによってのみ叙述されるべきだという原則が広く承認されるようになった。しかしこの原則を古代史に当てはめると、皇室の歴史を直接疑うことにつながる故に、長らく本格的な史料批判は行われないままであった。それでも早くから、初期の天皇が非常に長命であることや、紀年が古すぎることに疑問を持つ者はいた。たとえば明治の歴史学者那珂通世は日本書紀の記述を批判して、記紀の紀年は「辛酉革命説」に基づく編者の創作であろうと論考した。 日本古代史に真の意味での史料批判が展開されるのは大正期の津田左右吉を待たなければならない。津田は記紀の成立過程に関して初めて本格的な文献批判を行い、神話学、民俗学の成果を援用しつつ、神武天皇は弥生時代の何らかの事実を反映したものではなく、主として皇室が日本を支配するいわれを説明するために述作された日本神話の一部として理解すべきであると断じた。戦前彼の著書は不敬であるとして発禁処分とされたが、戦後になって天皇制のタブーが解かれると、神武東征説話の骨子が高句麗の開国説話と類似しているという神話学者三品彰英の指摘もあって、多くの歴史学者によっておおむね妥当な推論であるとして支持されるようになった。 こうした経緯から現代の歴史学界では神武天皇の存在は全く前提とされていない。したがって神武天皇に関する説話は何らかの形で創作されたものであるとする意見が強く、崇神天皇、応神天皇、継体天皇、または記紀編纂時期の天武天皇を基に創作したとする「モデル論」も盛んである。また、神武東征物語は邪馬台国の東遷(邪馬台国政権が九州から畿内へ移動したという説)がモデルであるとする説もある。現代のアカデミズムに属する学者による標準的な日本古代の歴史叙述では、この時代は主として考古学を証拠として記述されている。 即位年月日 神武天皇の即位年月日は、日本書紀の記述に基づいて、明治以来、法的・慣習的に紀元前660年の旧暦元旦、新暦の2月11日とされている。 紀元前660年とされた経緯 『日本書紀』は年月日は全て干支で記しており、即位年月日は「辛酉年春正月庚辰朔」とある。 グレゴリオ暦が明治6年(1873年)1月1日 から暦として採用されたが、それに先立って、紀元節が旧暦である天保暦の正月(旧正月)とはならないようにするため、神武天皇即位の日をグレゴリオ暦の遡り暦に換算して、紀元節を特定の日付に固定する必要が生まれた。文部省天文局が算出し、暦学者の塚本明毅が審査して2月11日という日付を決定した。 具体的な計算方法は明かにされていないが、当時の説明では「干支に相より簡法相立て」としている。 干支は、60の周期で単純に繰り返すので簡易に計算できる。 神武天皇の即位年の「辛酉年」は『日本書紀』の歴代天皇在位年数を元に計算すると西暦紀元前660年に相当し、即位月は「春正月」であることから立春の前後であり、即位日の干支は「庚辰」である。そこで西暦紀元前660年の立春に最も近い庚辰の日を探すと、グレゴリオ暦では2月11日と特定される。その前後では前年12月20日と同年4月19日も庚辰の日であるが、これらは「春正月」になり得ない。したがって「辛酉年春正月庚辰」は紀元前660年2月11日以外には考えられない。 なお、『日本書紀』はこの日が「朔」、すなわち新月の日であったとも記載しているが、朔は暦法に依存しており「簡法」では計算できないので、明治政府による計算では考慮されなかったと考えられる。当時の月齢を天文知識に基づいて計算すると、この日は天文上の朔に当たる。 諡号・追号・異名 「神武天皇」は、762年(天平宝字6年)~764年に淡海三船により選定され追贈された漢風諡号である。 和風諡号は次のとおり。 『日本書紀』の神武紀には「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)を、号けたてまつりて神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといはれびこほほでみのすめらみこと)と曰す」とある。 また、神代紀第十一段の第一の一書に「次に狭野尊(さののみこと)。亦は神日本磐余彦尊と号す。狭野と所称すは、是、年少くまします時の号なり。後に天下を撥ひ平げて、八洲を奄有(しろしめ)す。故、復号を加へて、神日本磐余彦尊と曰す」とあるが、第二の一書に「次磐余彦尊、亦號神日本磐余彦火火出見尊」、第三の一書に「次神日本磐余彦火火出見尊」、第四の一書に「次磐余彦火火出見尊」と似た名を挙げている。 一方『古事記』には、「若御毛沼命(わかみけぬのみこと)」「豐御毛沼命(とよみけぬのみこと)」「神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれびこのみこと)」の名が見える。 「神日本」は美称で、聖徳を称えた表現。「磐余」は大和の地名。奈良県磯城郡桜井村・阿部村・香具山村付近(今、奈良県桜井市中部から橿原市東南部にかけての地)で、桜井市谷には磐余山がある。5世紀から6世紀にかけ、磐余はたびたび皇居の地に選ばれた。 皇居・橿原神宮 都は橿原宮(かしはらのみや、奈良県橿原市畝傍町の橿原神宮が伝承地)。 『古事記』に「畝火之白檮原宮(うねびのかしはらのみや)」、『万葉集』に「可之波良能宇禰備乃宮(かしはらのうねびのみや)」。 「橿原」の地名が早く失われたために宮跡は永らく不明であったが、江戸時代以来、多くの史家が「畝傍山東南橿原地」の記述を基に口碑や古書の蒐集を行っており、その成果は蓄積されていった。幕末から明治には、天皇陵の治定をきっかけに在野からも聖蹟顕彰の機運が高まり、1888年(明治21年)2月に奈良県県会議員の西内成郷が内務大臣山縣有朋公に対し、宮跡保存を建言した(当初の目的は建碑のみ)。 翌年に明治天皇の御勅許が下り、県が「高畠」と呼ばれる橿原宮跡(の推定地、現在の外拝殿前広場)を買収。京都御所の内侍所を賜って本殿、神嘉殿を賜って拝殿(現在の神楽殿)と成し、橿原神社(1890年に神宮号宣下、官幣大社)が創建された。 1911年から第一次拡張事業が始まり、橿原神宮は創建時の2万159坪から3万600坪に拡張される。その際、周辺の民家(畝傍8戸、久米4戸、四条1戸)の一般村計13戸が移転し(『橿原神宮規模拡張事業竣成概要報告』)、洞部落208戸、1054人が1917年(大正6年)に移転した(宮内庁「畝傍部沿革史」)。 なお、1938年(昭和13年)から挙行された紀元2600年記念事業に伴い、末永雅雄の指揮による神宮外苑の発掘調査が行われ、縄文時代後期~晩期の集落跡を検出したが(橿原遺跡)、記紀の橿原宮に直接結び付くような痕跡は確認されていない。 またこの時期、第二次拡張事業(1938~40)がなされる。社背の境内山林に隣接する畝傍及び長山部落の共同墓地、境内以西、畝傍山御料林以南、東南部深田池東側民家などを買収。「境内地としての風致を将来した。」(「昭和二十一年稿 橿原神宮史」五冊-三、五冊-五(橿原神宮所蔵)) なお、この事業は国費及び紀元2600年記念奉祝会費で賄われた。 陵墓・霊廟 『古事記』には、137歳で亡くなり、「御陵在畝火山之北方白檮尾上也」御陵は、畝傍山の北の方の白檮(かし)の尾の上にありと記されており、『日本書紀』には127歳で亡くなり「葬畝傍山東北陵」畝傍山の東北陵に葬ると記されている。また、壬申の乱の際に大海人皇子が神武陵に使者を送って挙兵を報告したと言う記事がある。 『延喜式』によると、神武天皇陵は、平安の初め頃には、東西1町、南2町で大体100m×100mの広さであった。中世にはその所在が分からなくなっていた。 江戸時代の初め頃から神武天皇陵を探し出そうという動きが起こっていた。一方、水戸光圀が『大日本史』の編纂をはじめた頃幕府も天皇陵を立派にすることで、幕府の権威をより一層高めようとした。 元禄時代に陵墓の調査をし、歴代の天皇の墓を決めて修理する事業が行われた。その時神武天皇陵に指定されたのが、畝傍山から東北へ約700mの所にあった福塚(塚山)という小さな円墳だった(現在は第二代綏靖陵に治定されている。)。 しかし、畝傍山からいかにも遠く、山の上ではなく平地にあるので別な説が出てきた。それは、福塚よりも畝傍山に少し近いミサンザイあるいはジブデン(神武田)というところにある小さな塚である(現在の神武陵)。 その後また、丸山という説も出てきた。これが最有力説であったが、神武陵は、1863年(文久3)にミサンザイに決まった。幕府が15000両を出して修復した。このとき神武陵だけでなく、百いくつの天皇陵全体の修復を行った。神武陵は転々としてきた歴史がある。 陵墓は、奈良県橿原市大久保町の山本ミサンザイ古墳が、畝傍山東北陵(うねびのやまのうしとらのすみのみささぎ)だと宮内庁により定められている。 現在、橿原市大久保町洞にあり、大正時代には、高市郡白檮(かし)村大字山本であったが、同じ場所である。大久保(大窪)または山本である。畝傍山から約東北に300m離れていおり、東西500m、南北約400mの広大な領域を占めている。 毎年、4月3日には宮中およびいくつかの神社で神武天皇祭が行なわれ、山陵には勅使が参向し、奉幣を行なっている。 また、神武天皇から昭和天皇に至るまで、歴代天皇は皆、皇居の宮中三殿の一つの皇霊殿に祀られている。 基礎データ 代数 初代 御名 神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと) 父 彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと) 母 玉依姫命(たまよりひめのみこと) 皇居 畝傍山橿原宮(うねびやまかしはらのみや) 皇后 媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと) 在位 崩御 陵 畝傍山東北陵(うねびやまうしとらのみささぎ)
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【妄想属性】右翼 【作品名】明治天皇宇宙の旅 【名前】明治天皇 【属性】現人神 【大きさ】成人男性並み 蒸気機関が動力の小惑星並みの大きさの宇宙船に乗っている 【攻撃力】成人男性並み 乃木大将から拳銃を受け取っている 宇宙船は二十八糎砲を装備している 【防御力】成人男性並み 宇宙船は大きさ並み 【素早さ】成人男性並み 宇宙船は大きさ並み 【特殊能力】軍人並みの身体能力を持つ乃木大将他二名が明治天皇に味方している 【長所】明治天皇は、正に偉大なる帝王であらせられました 【短所】明治が終わって七十有余年、日本の国はこのように発展しましたが、 その歴史を振り返るに、果たしてそれが明治大帝の御心に添い奉っているのでしょうか 372 : ◆omTDoIF0bw :2016/06/23(木) 11 54 59.90 ID GMa7LcHZ 明治天皇 小惑星の大きさには厳密な定義がなく、 直径2000kmのものもあれば手の手のひらサイズのものもある 大きさ不明 追加情報待ち
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【妄想属性】右翼 【作品名】明治天皇宇宙の旅 【名前】明治天皇 【属性】現人神 【大きさ】成人男性並み 蒸気機関が動力の小惑星並みの大きさの宇宙船に乗っている 【攻撃力】成人男性並み 乃木大将から拳銃を受け取っている 宇宙船は二十八糎砲を装備している 【防御力】成人男性並み 宇宙船は大きさ並み 【素早さ】成人男性並み 宇宙船は大きさ並み 【特殊能力】軍人並みの身体能力を持つ乃木大将他二名が明治天皇に味方している 【長所】明治天皇は、正に偉大なる帝王であらせられました 【短所】明治が終わって七十有余年、日本の国はこのように発展しましたが、 その歴史を振り返るに、果たしてそれが明治大帝の御心に添い奉っているのでしょうか 372 : ◆omTDoIF0bw :2016/06/23(木) 11 54 59.90 ID GMa7LcHZ 明治天皇 小惑星の大きさには厳密な定義がなく、 直径2000kmのものもあれば手の手のひらサイズのものもある 大きさ不明 追加情報待ち
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【元ネタ】史実 【CLASS】キャスター 【マスター】 【真名】天武天皇 【性別】男性 【身長・体重】162cm・71kg 【属性】秩序・善 【ステータス】筋力E 耐久D 敏捷E 魔力A 幸運B 宝具C 【クラス別スキル】 陣地作成:B 魔術師として、自らに有利な陣地を作り上げる。 “工房”を形成する事が可能。 道具作成:C 魔力を帯びた器具を作成できる。 自身の魔術行使を補助する道具を作り上げられる。 【固有スキル】 カリスマ:C 大軍団を指揮する天性の才能。 カリスマは稀有な才能で、小国の王としてはCランクで十分といえる。 皇帝特権:C 本来持ち得ないスキルも、本人が主張する事で短期間だけ獲得できる。 該当するスキルは騎乗、剣術、芸術、カリスマ、軍略、等。 神性:D 神霊適正を持つかどうか。高いほどより物質的な神霊との混血とされる。 かなり薄まってはいるものの天照大神の血を引いており、存命中に神格化もされた。 占術:A+ 中国から伝わり、日本においても発展した東アジア圏独自の魔術体系。 吉兆や天候を占い、怪異や災厄を祓う他、式神と呼ばれる使い魔の使役を得意とする。 このランクならば、占うのみならず、術者自ら自然干渉を行う事が可能。 【宝具】 『天文遁甲盤(てんもうとんこうばん)』 ランク:C 種別:対人宝具 レンジ:1 最大捕捉:1人 天武天皇が愛用した式占盤。 使用者の魔術行使を強化・補助し、消費魔力・詠唱時間を削減する。 この宝具を用いる事により、天武天皇は「世界に訴えかける」魔術の個人での運用を可能とする。 【解説】 第40代日本国天皇。日本古代最大の反乱とされる壬申の乱に勝利して即位した。 即位後は庶民の官僚への登用と貴族や豪族の弱体化政策を進め、皇族の政治的権力を高め、中央集権的統治制度を確立させた。 また、自身も得意とした占術の他に陰陽術や、神道、仏教も振興し、天皇の宗教的権威を高める事にも成功。 日本最古の貨幣の発行を行い、また、「天皇」という称号を使い始めた最初の天皇であるともいわれる。
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【元ネタ】史実 【CLASS】セイバー 【マスター】 【真名】安徳天皇 【性別】? 【身長・体重】126cm・25kg 【属性】秩序・中庸 【ステータス】筋力E 耐久E 敏捷E 魔力A+ 幸運E 宝具A++ 【クラス別スキル】 対魔力:A+ A+以下の魔術は全てキャンセル。 事実上、魔術ではセイバーに傷をつけられない。 騎乗:E 騎乗の才能。大抵の乗り物なら何とか乗りこなせる。 【固有スキル】 神性:A 神霊適性を持つかどうか。高いほどより物質的な神霊との混血とされる。 天照大神の直系であり、竜神の娘の化身ともされ、相応の信仰を集める。 魔力放出:A 膨大な魔力はセイバーが意識せずとも、濃霧となって体を覆う。 魔力の余波によって各種耐性が格段に向上している。 透化:D 純真無垢。精神面への干渉を無効化する精神防御。 【宝具】 『天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)』 ランク:A++ 種別:対城宝具 レンジ:10~99 最大捕捉:1000人 三種の神器における武の象徴、八岐大蛇の尾より出でし神剣。 安徳天皇と共に壇ノ浦に沈んだ竜王の剣にして、八岐大蛇の分霊である。 水の魔力を常に溢れさせており、刀身に纏うことで不可視となっている。 この魔力によって中空に雲状の門を設置、開放することで八条の濁流を召喚し、 八岐大蛇の神威である莫大な水量を操作することで、あらゆるものを洗い流す。 また、この大蛇の力を安徳天皇自身が身に纏うことで、下記の宝具を発動させられる。 『幼帝変化八岐大蛇(ようていへんげやまたのおろち)』 ランク:EX 種別:対人宝具 レンジ:- 最大捕捉:1人 八岐大蛇の化身とされる、安徳天皇の内部に秘められた魔力を解き放った状態。 『天叢雲剣』 によって召喚させた、大蛇の神威たる濁流を疑似的に受肉させ、 鱗を持った八条の大河にそれぞれ龍頭を冠すことで、八岐大蛇は降臨する。 安徳天皇を魔力炉・霊核として取り込んだ大蛇は破壊本能のままに活動し、 日本神話最大の怪物として神霊にすら準ずるレベルの猛威を振るうが、 やがて仮初の肉体が耐え切れずに自壊し、安徳天皇を生贄として喰らい無に消える。 【解説】 第81代天皇。わずか8歳という最年少で崩御した少年天皇である。 1180年、2歳で即位するが、政治の実権は平清盛が握ったままであった。 壇ノ浦の戦いで平家一門滅亡の際、祖母・二位の尼に抱きかかえられ、神璽・宝剣と共に海中へ没した。 その悲劇性から数々の伝説を有し、各地に漂流伝説と安徳陵が残る。現在は水の神としてまつられている。 「義経千本桜」では清盛によって男装を強いられた幼女帝という設定で登場し、 八島の戦で滅びた平家、知盛に匿われ、知盛が義経に挑み敗北した後は、小原に送られ親子で暮らした。 出雲で素戔嗚尊に奪われた剣を、もともとの持ち主である龍王の娘が、安徳帝に化身して奪い返した。 その御霊は八岐大蛇の化身であり、鎮魂を怠れば災厄をもたらす。 という伝説もある。
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亀山天皇 建長1.5.27(1249)~嘉元3.9.15(1305) 鎌倉中期の天皇。名は恒仁/つねひと。父は後嵯峨天皇、母は西園寺実氏の娘の大宮院(藤原/きつし)。先代後深草天皇は同母兄。父母は病弱な兄よりも恒仁を愛し,彼に皇位を伝えたいと考えていた。ために正嘉2(1258)年,兄後深草の東宮に立ち,翌年に即位した。ただし当時の実権は父の後嵯峨上皇が一手に掌握していたため,政治的にはみるべきものがない。文永5(1268)年,皇子世仁/よひと親王を東宮とする。同9年に後嵯峨が没すると,兄をさしおいて「治天の君」となり天皇親政を開始,2年後東宮(後宇多天皇)に譲位して院政を行った。この時点では,皇統は完全に亀山の子孫(大覚寺統)に受け継がれるかにみえた。しかし後深草上皇は皇位回復をあきらめず,くり返し鎌倉幕府に働きかけてその後援をとりつけた。建治1(1275)年,幕府の提言により後深草上皇の皇子煕仁/ひろひと親王が皇太子に立った。これは近い将来,皇位が後深草の側(持明院統)に移ることを意味する。持明院統,大覚寺統の両統の迭立は,厳密にはこのときに始まる。またこのころ,摂政鷹司兼平が大きな政治力を持ち,亀山の地位を脅かすまでになった。煕仁親王立太子の一件で,幕府は間接的にせよ亀山を支持しなかった。このことと兼平の台頭とは一定の関係があると想像できる。 やがて亀山は朝政を積極的に主導することによって劣勢を挽回しようとし,やつぎ早に改革を行っていく。腹臣の伝奏/てんそう,評定衆の発言権を強化することによって兼平から実権を奪い,有能な下級官人を文殿衆/ふどのしゆうとして編成して彼らにも実務を担当させた。また『弘安礼節』を制定して廷臣や大社寺の間に秩序を確立し,弘安8(1285)年には朝廷初の本格的な訴訟の法20カ条を制定した。こうした動きは「徳政/とくせいの興行」と呼ばれ歓迎されたが,結局同10年,幕府の意向で伏見天皇が即位し,皇位も実権も持明院統に移る。失意の上皇は2年後に出家し,なおも大覚寺統への皇位の回復に尽力した。離宮亀山殿に没した。陵は京都の亀山陵。(本郷和人) 『日本歴史人物事典』(朝日新聞社)より
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【元ネタ】史実、『平家物語』、『義経千本桜』 【CLASS】バーサーカー 【マスター】 【真名】安徳天皇 【性別】女性 【身長・体重】133cm・32kg 【属性】中立・中庸 【ステータス】筋力E 耐久E 敏捷E 魔力A+ 幸運E 宝具A++ 【クラス別スキル】 狂化:- 通常時、狂化は機能していない。 その代わり、正常な思考力を保つ。 【固有スキル】 神性:A 神霊適正を持つかどうか。高いほどより物質的な神霊との混血とされる。 天照大神の直系にあたり、本人も相応の信仰を集めている上、 神代の蛇神、八岐大蛇の転生体とされる安徳天皇の神霊適正は最高ランクと言える。 【宝具】 『水天宮草薙剣(すいてんぐうくさなぎのつるぎ)』 ランク:A 種別:対人宝具 レンジ:1~5 最大捕捉:10人 日本国三種の神器の一つ。 八岐大蛇の怨念を鎮めるため、その骨を削り出し神剣として祀り上げたもの。 剣その物の能力は高いものの、未熟な安徳天皇には高度な使用は難しく、 刀身から溢れる魔力を使って水を操り、攻撃や防御に転用するのが限界である。 『斐伊遠呂智天叢雲(ひいおろちあまのむらくも)』 ランク:A++ 種別:対城宝具 レンジ:- 最大捕捉:1000人 草薙剣の内部に秘められた神代の大蛇の魔力を解き放ち、 召喚された八筋の濁流を安徳天皇を核に纏う事で八岐大蛇の肉体を構築する。 荒れ狂う魔力の渦に安徳天皇の自我は徐々に削られ、 ターンとともに狂化のランクが上昇し、八岐大蛇としての側面が表面化。 破壊力の上昇も相まって、最終的には制御不能の大災害と化す。 【解説】 数え年8歳(満6歳4ヶ月)という最年少で崩御した、第81代天皇。 摂政政治をもくろんだ平清盛に、数え年3歳(満1歳4ヶ月)で即位させられた後、 源氏を中心とした勢力が起こした反乱により、平家一門に連れられ三種の神器と共に都落ちする。 壇ノ浦の戦いで平家一門が滅亡したことで、すべての退路を断たれた後、 せめて源氏の手には落ちるまいとした祖母に抱きかかえられ、神璽・宝剣と共に海中へ没した。 現在は水を司る神・水天宮として奉られているほか、実は八岐大蛇の化身であった、という伝説もある。 ――男性で語られる事の多い人物だが、いくつかの物語では女性としての記述もされている。 表舞台には殆ど姿を表さず、政治の道具として扱われた境遇への同情からか生存説も存在する。 【出演SS】 幼帝と空の魔王 終わり、そして始まる物語 兵共が理想(ユメ)の跡
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登録日:2010/06/08 Tue 22 34 04 更新日:2024/02/12 Mon 07 56 41NEW! 所要時間:約 6 分で読めます ▽タグ一覧 ゴッ!トッ!バッ! ゴトバイン ゴトバゴトバ ←鳥はいない ゴリラ!トラ!バッタ! 上皇 人物 天皇 後鳥羽天皇 承久の乱 日本史 歌人 歴史 鎌倉時代 鎌倉殿の13人 今年の夏、海水浴場の監視員のアルバイトをしていた。 DQNカップルに向かって「危ないぞ、沖に流されたらどうするんだ!」って注意したら DQN「おきに流されるって、後鳥羽上皇かよwww」 DQN女「マジ受けるんだけど、超承久の乱www」 とか言って聞き入れなかった。 その後、突然の嵐にDQN共は沖に流されその姿を見たものはいない。 後鳥羽(ごとば)天皇 1180年8月6日~1239年3月28日 平家と共に西に落ちた安徳天皇に代わり即位。 第82代目の天皇。 時は1183年、木曾義仲率いる源氏の軍勢に京を追われた平家は「安徳天皇」を連れ西へと落ち延びる。 天皇不在のままでは政務が滞ることを危惧した後白河法皇は、翌年当時五歳の尊成親王を即位させて「後鳥羽天皇」とし、当人は摂政として実権を握った。 この時、天皇の即位に必要な「三種の神器」は平家によって持ち出されており、神器は正当な天皇の手に必ず戻ってくるという事にして、事後承諾的に神器がないまま天皇に即位することとなった。 天皇が二人いる(安徳天皇は退位していなかったため)というこの異例の状況は、二年後の1185年に安徳天皇が「壇ノ浦の戦い」で平氏一門と共に崩御するまで続いた。 しかし、三種の神器のうち、「草薙剣」のみ回収が叶わずに平氏や安徳天皇と共に海中に消えてしまったため、 三種の神器が揃わないことで後鳥羽天皇の天皇としての正当性は保証されず、少しでも不徳をすれば「まあ、神器が揃ってない天皇だしねぇ…」等の嫌味を言われたりしており、 後鳥羽天皇自身もこれをコンプレックスと感じていたようで、何度か宝剣探索を行わせているが、結局壇ノ浦に沈んだ「草薙剣」は見つからなかった(*1)。 この事が彼の人格とその後の人生に大きな影を落とすこととなる。 後鳥羽天皇が在位してからは後白河法皇が院政を敷いており、後白河法皇が崩御してからは当時の関白であった「九条兼実」が政権を握り、 後白河法皇が忌避していた「源頼朝」の征夷大将軍就任が認められたことで、史上初の武家政権である「鎌倉幕府」が誕生する。 しかし、兼実と頼朝及び鎌倉幕府の関係は次第に悪化し、1196年に起きた「建久七年の政変」で兼実の郎党が朝廷から一掃されている。 それから二年後の1198年、後鳥羽天皇は当時3歳であった息子の為仁親王に位を譲って「土御門天皇」とし、自身は院へと移り院政を開始。 その後三代に渡り、上皇として政務を取り仕切ることとなり、1202年に朝廷で権勢をふるった土御門通親が急死し、九条兼実も出家したことで名実ともに「治天の君」となった。 鎌倉幕府には強硬な姿勢を崩さなかったが、和歌などに造詣が深い源千幡が三代目将軍となった時には上皇自ら「源実朝」の名乗りを認め、 実朝を朝廷側に引き込んで鎌倉幕府内への影響力を強めようとする後鳥羽上皇と、実子のいない実朝の後継ぎに皇族を据えようとする鎌倉幕府は互いの思惑もあって一時期良好な関係となるが、 源実朝が甥の公暁に暗殺される事件が起こるとその関係は終わりを告げ、急速に関係は悪化していくこととなった。 幕府との関係上、心優しい土御門天皇では厳しいと考えた上皇は、1210年に土御門を退位させると新たに「順徳天皇」を据え、1221年には「仲恭天皇」を推戴し鎌倉幕府倒幕の準備を進める。 (もっとも、幕府を倒すというよりは「執権の北条義時を倒して幕府の状況を変えたかっただけ」とする説もある) 同年1221年、遂に準備を終えた上皇は鎌倉方に挙兵。 朝廷の権威をもってすれば、武士はみんな味方に付くだろうという打算があった。 …が、当の朝廷内部ですら鎌倉方と仲の良い者もいれば、これでは勝てないと諫める者がいる状態。 息子の土御門上皇すら反対しており、この見通しは正直甘かったと言わざるを得ない。 一方の鎌倉幕府も、朝廷の権威がどれほどか測りかねて動揺したのは事実であったが、結局大半の武士は鎌倉方についた。 北条政子の頼朝の恩を謳った大演説は、歴史の授業で聞いた人も多かろう(*2)。 兵力で大幅に劣る朝廷軍は各戦線で敗戦を重ね、最終的に朝廷軍は幕府軍に大敗を喫することとなった。 助けを求めた比叡山延暦寺の僧兵にも普段の政策が災いしてそっぽを向かれ、京都を守る最後の防衛戦も突破されてしまう。 事ここに至って、後鳥羽上皇が取った対応は… 幕府軍に使者を送って「義時追討の院宣は取り消します。というかあれは一部の佞臣の企てで言わされたもので、決して自分の本意じゃないんです。私は関与してません!」 一緒に戦うことを求めて御所にやってきた主要な武士を門を閉じて追い返したどころか、彼らを逮捕するように幕府側に院宣を出す。 必死になって上皇を止めていたが、上皇に逆らえず院宣の文章を作った部下を「反乱の張本人」として鎌倉に突き出す。もちろんその部下は結果として死刑に… と、部下に責任を擦り付けて自分は責任を逃れようとする、なんとも身勝手なものであった。 当然ここまでやらかしておいて言い逃れできるはずもなく、結局捕らえられた後鳥羽上皇は隠岐へと流罪。関わりある者等も連座して方々へ流された。 元々側近以外の貴族からは(前述の三種の神器の件も含めて)後鳥羽上皇の評判はあまり良くなかったこともあり、 承久の乱で敗北し失脚した後鳥羽上皇への視線は冷ややかなものが大半であり、上述の九条兼実の弟にして天台座主(天台宗および延暦寺のトップ)の慈円が書いた『愚管抄』などにも「自業自得」と書かれている。 後鳥羽の挙兵に反対していた息子の土御門上皇も「自分は関与してないけど、自分だけ京都にいるのも辛い…」と京都を離れたが、 承久の乱に関与しておらず、罪人でもない土御門上皇に関しては、幕府も上皇が居を移した四国に宮殿を作るなど相応に配慮している。 当の後鳥羽上皇は隠岐へと流されても挫けた様子はなく、都との連絡を頻繁に取り赦免運動と趣味である和歌の編纂等にいそしんでいたが、1239年崩御。 都への帰還が絶望的になった後、「万一にもこの世の妄念にひかれて魔物となることがあれば、この世に災いをなすだろう。 我が子孫が世を取ることがあれば、それは全て我が力によるものである。もし我が子孫が世を取ることあれば、我が菩提を弔うように」との未練と無念さをにじませた文を残している。 崩御と前後して、北条泰時や四条天皇といった幕府と朝廷の要人の死が相次いだため、怨霊になったとも噂される。その怨霊を鎮めるため諡号は顕徳院とされた。 なお、この「承久の乱」を機に六波羅探題が設置されたことで、朝廷は事実上幕府に従属し、後鳥羽上皇自身どころか朝廷権力全般が凋落してしまった。 後に天皇の位を継げる皇統が後鳥羽上皇の子孫しかいない事態となってしまったため、天皇の先祖が怨霊ではまずかろうということで後鳥羽院へと改諡され、ある程度は復権している。 とはいえ、即位した後嵯峨天皇は、後継者争いを引き起こした末に次の天皇の決定を幕府に丸投げするというとんでもない行為をやらかし、その結果皇統が持明院統と大覚寺統の2つに分断される。 こうして東国武士のための政権だった鎌倉幕府は、名実ともに日本政府という立場と責務を押し付けられてしまった。 それから半世紀、正当な天皇の後継者が成長するまでの中継ぎとして即位した後醍醐天皇が今度こそ幕府を滅ぼす事ととなる。 とはいえ、その間に武士の力が高くなっていく一方、後醍醐天皇に政治力はなく、結局政権は武士の手に戻ってしまう。 その後武士から朝廷に権力が戻ったのは19世紀の大政奉還を待たなければならなかった。 一流の歌人・文化人としても有名であり、「新古今和歌集」の編纂を命じるなどし、小倉百人一首にもその名を遺した。 歌人との親交も深く、歌人としても有名な源実朝が生きている間は、後鳥羽上皇も幕府にはむしろ好意的なくらいであった。 朕は歌人の追記・修正を命じる △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] この頃になると、朝廷を支えてた御師や傀儡子やら鎌倉方についてそうだから、上皇さんの支持者って限られてたろうな 鎌倉武士たちは論外だし -- 松永さん (2013-03-26 20 57 33) DQNの切り返しすごいな。超承久の乱って…上級者だな。 -- 名無しさん (2013-11-19 17 55 05) DQNの知能レベルの高さが無駄に高い。 -- 名無しさん (2013-11-19 18 06 08) 崇徳さんとデュエットしたら? -- 名無しさん (2013-11-19 18 11 06) たしかにタトバ天皇とか居ても語感的には違和感ないなw -- 名無しさん (2014-01-24 22 19 31) 最初のDQNに草不可避w -- 名無しさん (2014-01-24 22 21 56) 御堀川帝とその后、摂政藤原教実の死は後鳥羽帝の生霊。三浦義村、北条時房、泰時、四条帝の死は怨霊だって考えられてる。これもあって歴代天皇で唯一贈名が「顕徳院」から「後鳥羽院」に変えられている -- (2014-01-24 22 22 30) しかし院政ってなんだろうな。天皇退位してから本番とか言う感じなのがなあ。 -- 名無しさん (2014-07-13 21 29 21) 天皇は政治を行うというより神事や宮廷行事を執り行うことが中心で自由がないからな。帝の地位を退いたほうが元天皇である面からも色々と自由にできるからな。それに治天の君ともなればその力は絶大だろうし。 -- 名無しさん (2015-02-04 02 44 18) タグがカッコいいと思った(小並感)。 -- 名無しさん (2015-03-07 23 10 24) 上皇のイメージが強すぎて天皇と書かれると一瞬戸惑う -- 名無しさん (2015-03-07 23 21 10) ↑同意。教科書じゃ、「上皇」の肩書で掲載されてたしね。 -- 名無しさん (2015-03-07 23 53 08) 菊一文字もこの人の時代だっけ(本当に菊の紋を入れされたかどうかわからんけど) -- 名無しさん (2015-03-07 23 59 58) 高野山に住んでいた智行上人という僧侶が見た夢では、天照大御神に「このまま隠岐の地で死にゆくのは耐えられない。だから私は天下を滅ぼそうと思うのでそのことを大神に伝えに参った」と話す上皇の姿を見た、らしい -- (2015-04-06 02 29 31) 妙にインテリなDQNだな -- 名無しさん (2015-04-06 03 00 19) 承久の乱で負けて部下たちが屋敷に来て一緒に戦いましょうと申し出ると「俺しーらね。勝手に逃げれば?」「あ、幕府さん?うちの佞臣が暴走しちゃってさー」と言い逃れ。タダの夜郎自大だったっぽい。 -- 名無しさん (2017-04-24 20 10 18) ↑なのに死後は怨霊として妖怪になって祟るんだから性質悪い -- 名無しさん (2017-08-06 09 31 02) うちの恩師は「実朝の事は後鳥羽は結構気に入ってたんですよ、北条が嫌いなだけで」つってたな まあこの恩師「日本の文化は地味と派手の谷と山が続きます。東山文化の次を見なさい。安土桃山文化はド派手ですね。作った人は信長と秀吉。日本史上DQNベスト3の1位と2位です。3位は高師直」とか言ってたような人だったからなあ… -- 名無しさん (2018-01-31 17 30 53) ↑2 隠岐に流された頃は「自分は崇徳院のように怨霊にはなりたくない」と書き残したりはしてたんだけどな -- 名無しさん (2018-06-16 01 40 29) 息子の土御門天皇が最も不憫だな(´;ω;`)。3歳で後鳥羽天皇から譲位され、15歳で上皇へ (またしても後鳥羽上皇の口)、自身は鎌倉に対して反抗するべきではないと言っていたが後鳥羽上皇の暴走。後鳥羽上皇流罪のときは、自らに責任はないのに自ら進んで土佐へ流れた・・・ -- 名無しさん (2021-03-05 18 29 49) 土御門天皇もよくわからん人だよね、自分から流罪になりたがるってよほど家族仲良かったのか -- 名無しさん (2021-03-06 08 51 14) ↑6祖父の後白河法皇とやってることが一緒な辺り血筋だなあと思う。まあ祖父と違って言い逃れできなかったけど -- 名無しさん (2021-05-17 22 23 08) 学びのあるDQNだな... -- 名無しさん (2022-03-01 11 47 30) 一応後鳥羽院の低評価は、京都の貴族が鎌倉に恭順姿勢を見せるに当たって全部後鳥羽のせいにするために盛られてる可能性も高い気はするけどね。 -- 名無しさん (2022-10-31 11 21 34) ↑21崇徳上皇にとって後鳥羽上皇は自分の院政の道を潰した上に自分を流罪に追い込んだ憎き後白河天皇の子孫だからデュエットはしないと思う -- 名無しさん (2022-12-28 13 00 54) ↑むしろ崇徳上皇のたたりで後白河の孫である後鳥羽が負けて落ちぶれた感がある -- 名無しさん (2022-12-30 14 46 09) ↑後鳥羽上皇が落ちぶれたのが崇徳上皇の祟りならそこまでの間に後白河の皇子や孫の何人かが相次いで若くして亡くなったのも崇徳の祟りって事になっちゃうな。一番崇徳から恨まれてる後白河本人は長生きしたけど -- 名無しさん (2023-01-01 11 28 38) ゴッシーは祟り効かなそうな怪物感あるから…… -- 名無しさん (2023-01-01 11 37 03) 敗けて危機が及ぶとお公家さんらしく「配下がやったことです。知りません」命乞い発動したのがねえ。まだ「おのれ北条。くっ殺」だったら男としての株は保てたんだが -- 名無しさん (2023-01-14 00 08 06) 実際に明治位まで天皇家が没落したのは崇徳院の祟りって信じられていたからな。明治維新の際に明治天皇が崇徳院の御霊を京都に移して神社を建てたり -- 名無しさん (2023-01-14 00 46 49) ここ読むまで顕徳院→後鳥羽院の改諡をしらんかった。ウィキペディアとかで勉強しとけばよかった…歴史に「顕徳天皇」で名が残った可能性もあったって事か… -- 名無しさん (2023-04-14 19 00 15) 責任逃れの時の発言がクズ過ぎて笑ってしまったw -- 名無しさん (2023-06-06 06 57 35) この人が幕末から現代までの天皇でなくて良かった… 絶対どこかで暴走して諸外国から詰め寄られた時「部下が勝手にやったこと」とか言って、領土を分け与える条約結びそうだもん -- 名無しさん (2023-08-01 12 12 49) 名前 コメント